2022年1月23日「もうそれで十分です」加山献牧師

マタイによる福音書10章24節~25節

「弟子は師にまさるものではなく、僕は主人にまさるものではない。」(24節)

 弟子たちは主イエスの姿や、その語る言葉に憧れていました。しかし主は、「あなたたちは私を超えることはできない」と言われました。これは当時のユダヤでよく知られていたことわざで、主イエスはそれを引用されたのです。しかし主はそのことわざにさらにひとつ付け加えられました。

「弟子は師のように、僕は主人のようになれば、それで十分である。」(25節a)

 主イエスの“ように”なれれば、もうそれで十分だというのです。弟子であり、僕である私たちが「先生」であり、「主人」であるキリストに似た者へと変えられていく、ということほどありがたいことはないのではないかと思います。ある人は朝起きるとこのように祈ったそうです。「神さま、今日という日に、たったひとつでも、イエスさまが私を通してなさろうとしていることをなし、たった一言でも、イエスさまが私を通して語ろうとしていることを語ることできるように、助けてください。」

「家の主人がベルゼブルと言われるのなら、その家族の者はもっとひどく言われることだろう。」(25節b)

 主イエスは一部の人々から「ベルゼブル」(悪魔の頭領)という侮辱的な呼び方で呼ばれていました。しかし、主はそのように根も葉もない誹謗中傷があっても、必要以上に悲しんだりされませんでした。世の中の評価によってご自身のアイデンティティが揺らぐことがなかったのです。他の人がどのように評価するかではなく、神がご自分をどのようにご覧になっているかに主のご人格の基礎にありました。

 主イエスがヨルダン川でバプテスマを受けられた時、天からこのような声がありました。「これはわたしの愛する子、わたしの心にかなう者である。」(マタイ3章17節)このように、父なる神と子なる神との関係こそが、イエスさまの「『私』と言う存在は何者なのか」という自己認識の土台でした。 主イエスに似たものとされていく、ということはまさにこのようなことだと思います。人の評価によってではなく、自分の成し遂げる働きによってではなく、神と自分との間にある関係に、自分の存在の確かさを持つことです。私たちは主の”ように”なれれば、愛されている神の子になれれば、もうそれで十分です。