ルカによる福音書10章38節~42節
さて、今朝の聖書の箇所は、たった5節だけの短い箇所です。有名な「善いサマリヤ人」の後に記された「マルタとマリア」のところです。
ルカ9:51に「イエスは、天に上げられる時期が近づくと。エルサレムに向かう決意を固められた。」 新改訳2017には「イエスは御顔をエルサレムに向け、毅然として進んで行かれた。」とありますから、十字架への旅の途中の出来事であることがわかります。
「一行が歩いて行くうち、イエスはある村にお入りになった。するとマルタという女が、イエスを家に迎え入れた。」彼女にはマリアという妹とラザロいう弟がおり、主はこの三人の姉弟をとても愛していました。一行を迎えるのも、何度目かでありました。
ところが、もてなしも早々に「マリアは主の足もとに座って、その話に聞き入っていた」のです。当時の女性は、神の言葉を聞く資格など無かったので、彼女には至福の時でした。
マルタは、色々なもてなしのため立ち働いていましたが、なかなか戻ってこないマリアに、我慢ができなくなり、主のそばに近寄って『わたしの妹は私だけにもてなしをさせていますが、何ともお思いになりませんか。手伝ってくれるようにおっしゃってください。』
こともあろうか、おもてなしをするそのお方に、失礼にも不平を漏らして、主なるイエスに「何とも思わないのですか!」と罵ってしまつたのです。
「主はお答えになった。「マルタ、マルタ、あなたは多くのことに思い悩み、心を乱している。「しかし、必要なことはただ一つだけである。マリアは良い方を選んだ。それを取り上げてはならない。」
「マルタ、マルタ」と情愛をもって呼びかけ、主は、マルタが出来る限りのもてなしをしてくれていることを深く受け止めながら、しかし、神の言葉を聞く暇がないほど、思い煩うのはいけないことだと教えておられるのです。マタイによる福音書4:4にも
「人はパンだけで生きるものではない。神の口から出る一つ一つの言葉で生きる。」と。
マルタはイエスさま一行をもてなそうとしたのに対し、
マリアはイエスさまからもてなされることを選んだ。ということができます。 自分の働きや奉仕を他の人と比べず、主への感謝だけを思い、悩まず励みましょう。先ずみ言葉への聴従があるところに、神と人に対する愛が全ての行動の原動力になるからです。