2022年5月1日「私の荷は軽い」加山献牧師

マタイによる福音書11章20節~30節

 「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。 わたしは柔和で謙遜な者だから、わたしの軛を負い、わたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたは安らぎを得られる。わたしの軛は負いやすく、わたしの荷は軽いからである。」(28節~30節)

 これは最も愛されているイエス・キリストの言葉であり、多くの教会がこの言葉を看板に掲げます。この言葉に導かれて信仰の道に入ったという方は古今東西、多くおられることだろうと思います。この箇所には、三つの主の勧めがあります。

1) わたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。

 「休ませる」(アナパウオー)と「安らぎ」(アナパウシス)という言葉は同じ語根を持っています。それはもともと“弦を緩める”という意味でした。ギターやバイオリンなどの楽器は、最善の状態を保つために、時に弦を緩めて休ませる必要があります。

 同じように、私たちも休む必要があります。私たちは日々、様々な思い煩いで気持ちを張りつめているのかもしれません。キリストのもとで憩い、休むということは、主の臨在の中でそのような緊張を解くことなのです。

2) わたしのくびきを負いなさい。・・・わたしのくびきは負いやすい。

 「負いやすい」(クレートス)という言葉は「親切な、心地よい、愉快な」など、様々な意味があります。ここでは「よく体にあっている、よくはまる」の意味で用いられています。

 くびきが体に合っていない時、牛や馬の首は擦り切れてしまいます。しかし、主イエスのあたえるくびきは体になじみ、負いやすいのです。さらには主イエス自身が共にそのくびきを担ってくださるからこそ、その荷は軽いのです。

3) わたしに学びなさい。わたしは柔和で謙遜なものだから。

 これは何かを知的に学んでいくということよりも“見習う”ことを意味しています。「私は柔和で謙遜なものだから」という言葉は「私は柔和で謙遜なものだということを(学びなさい)」とも訳されます。主のすぐそばで、その生き方に倣う生活への招きです。 そうすれば、「あなたがたの魂に安らぎがくる」と主イエスは言われます。主が与える安らぎは私たちの人格の最も深い部分に訪れる平安なのです。