マタイによる福音書15章20節~30節
この聖書箇所に出てくる女性には心からの渇望がありました。それは病気の娘を助けたい、愛する娘を救いたい、という強い願いでした。差し迫った状況にあった彼女は助けを求め、自分の痛みを包み隠さず語りました。
ところが彼女に二つの試練が与えられました。第一にキリストの沈黙です。「しかし、イエスは何もお答えにならなかった」(23節)とあります。二番目にキリストの反対です。主は「子供たちのパンを取って小犬にやってはいけない」(26節)と答えられました。しかし、彼女は決してあきらめることはありませんでした。娘を思う母の愛が彼女を突き動かしました。なりふり構わず彼女は求め続けたのです。
彼女は答えました。「主よ、ごもっともです。」(27節) 私たちはここに彼女の驚くべき謙遜さを見ることできます。私たちは恵みを受けるに値するものであったのでしょうか。赦されるに値するものであったのでしょうか。愛される資格のないものを愛してくださった。それが十字架の愛です。与えられるべきでないものが、与えられた。それが恵みの意味です。彼女は慎ましく、素直に、主の語られることを認めました。「主よ、ごもっともです。」
そして、なおも彼女はキリストを信じ続けました。「小犬も主人の食卓から落ちるパン屑はいただくのです。」 (27節) 主イエスの与えてくださるものだけが、彼女の最後の望みでした。マタイは、このストーリーの結末を次のように報告しています。
イエスはお答えになった。「婦人よ、あなたの信仰は立派だ。あなたの願いどおりになるように。」そのとき、娘の病気はいやされた。(28節)
彼女には称賛されるべき特質が多くあります。彼女の知恵、機転の良さ、慎ましさ、柔和さ、忍耐、しかし主イエスが褒めたのは、彼女の信仰だったのです。
「信仰とは、望んでいる事がらを確信し、まだ見ていない事実を確認することである。」 ヘブル11:1