2022年8月21日「罪人を義として下さる恵みの主」今村まさゑ協力牧師

ローマの信徒への手紙3章21節~26節

 最近、テレビを付けると、旧統一教会の問題点が驚くほど明らかにされています。如何に多くの人が真の神を知らず、恵み深いキリストの福音が届いていないかを覚え、「聖書」を手にしてほしいと心から願うばかりです。

 さて、人間を創造してくださった神を無視し、神を神としない生き方を、聖書は罪、(ハマルテイア・的外れ)と言います。(ローマ書1章18節~) 「人は皆、罪を犯して神の栄光を受けられなくなっていますが、ただキリスト・イエスによる贖いの業を通して、神の恵により無償で義とされるのです。」

 贖いの業とは、キリストの十字架と復活の事、神の義とは、神の正しさです。神が罪を赦すのは、悪や不正を曖昧にして、水に流すと言うのではありません。神が遣わして下さったキリストが、わたしたちの罪の身代わりとなって死んでくださった。ここに神の義と愛が貫かれているのです。

 「罪と何のかかわりもない方を、神は私たちのために罪となさいました。

  わたしたちはその方によって神の義を得ることができたのです。」(Ⅱコリ5:21)

 救い主キリストは、義なる神の性質と、完全な愛のお方なのです。義と愛、この二つの性質は相反する性質ですが、この二つの性質が見事に一つとされ、つまり、神の義と神の愛が、同時にはっきり示されている場所こそが、イエス・キリストの十字架なのです。

 ♬ 十字架のもとぞ いと安けき   神の義と愛の あえるところ

   嵐吹く時の 巌のかげ  荒れ野の中なる わが隠れ家  (教讃262)

 信仰とは、神が成し遂げて下さった十字架の贖いを、ただ感謝して頂くだけです。「神は、・・・イエスを信じる者を義となさるためです。」(25~)

 贖いとは、元来、奴隷を自由にするために買い受ける身代金でした。 しかし、人間を滅びから買い戻すための身代金を、支払う者と、受け取る者が共に神であり これこそ、神の愛なのです。

 人は何も払わないでよいのです 。否、払えないのです。余りにも尊いキリストの代価ゆえ、わたしたちの業では何をもってしても値しないのです。 御愛を信じるだけで義とされるのです。 「恐れるな、わたしはあなたを贖う。あなたはわたしのものだ。」(イザヤ43:1)