2022年10月9日「愛のしるし」加山献牧師

マタイによる福音書12章38節~42節

「すると、何人かの律法学者とファリサイ派の人々がイエスに、『先生、しるしを見せてください』と言った。」(38節)

 ファリサイ派の人々は「先生、しるしを見せてください」と主イエスに語りかけました。それは「あなたが救い主であるという証拠を見せてください」という意味の質問でした。主はそれまで多くのしるしをおこなってきました。もう既に主イエスが救い主であるという証拠はたくさんありました。旧約聖書には数多くのメシア預言(来るべき救い主についての預言)があり、主イエスのひとつひとつの奇跡はその成就だったのです。もし彼らが心を開くなら、彼らも信じることができたことでしょう。

 私たちが生かされているこの時代はどうでしょうか。「神がいるなら証拠を見せてみろ」というような現実主義的な時代に私たちは生かされているのかもしれません。しかし、もう既に私たちの身の回りには、あまりにも多くのしるしがあるのではないかと思います。

 私たちが生かされているこの世界を見渡す時、大自然と向き合う時、朝が来るたびに始まる新しい一日の光の中に、深く吸い込みゆっくり吐き出すこの呼吸の中に、何気ない家族や友人たちとの時間の中に、多くのしるしがあります。すべては当たり前のものではありません。私という人間が存在し、生きていることすら、神様からの尊い贈り物であり、しるしなのです。

 それでもなお、「神様、あなたがおられるなら証拠を見せてください」と願うことがあるかもしれません。「このような私が愛されていて、赦されていて、あなたの目に価値あるものであるという証拠を見せてください」と祈ることもあるかもしれません。 そのために、イエスさまは十字架という大きなしるしを残していってくださいました。十字架を見上げる度に、私たちは知ることができます。私はこの上なく愛されている存在であることを。自分が本当に価値ある人間であるという事実を。この十字架を通して、私たちは知ることができるのです。十字架は私たちのための愛のしるしです。