2022年10月30日「神の義、私の味方」加山献牧師

ローマの信徒への手紙4章25節~5章5節

 「このように、わたしたちは信仰によって義とされたのだから、わたしたちの主イエス・キリストによって神との間に平和を得ており、このキリストのお陰で、今の恵みに信仰によって導き入れられ、神の栄光にあずかる希望を誇りにしています。」(5章1節~2節)

 “義とされる”とは、いったいどのようなことなのかを考えたいと思います。“義とされる”とは、良しとされること、神様の目から見て、“あなたは合格です”という状態になることだと言えます。この手紙を書いた使徒パウロは、「私たちは行いによって義とされるのではない、それは無理だ」と語っています。

 それでは何が必要なのでしょうか?パウロが一貫して語るのは、私たちにはイエス・キリストが必要なのだ、ということです。私の行いによってではなく、イエス・キリストの生涯と十字架の業によって、義とされたのです。その主イエスを信じる信仰によって、私たちは“義”とされます。

 イザヤ書61章10節には次のような言葉があります。「わたしは主を大いに喜び、わが魂はわが神を楽しむ。主がわたしに救の衣を着せ、義の上衣をまとわせて、花婿が冠をいただき、花嫁が宝玉をもって飾るようにされたからである。」(口語訳) ここでは神の義(救い)は衣のようなものだと言われています。その衣を着させられる時、神様は私たちの罪を見ません。私たちの上に着せられた、イエス・キリストを見てくださるのです。イエス・キリストが罪のない、完全な人生を生きられ、その義の衣を私たちに着せてくださったのです。イエス様が十字架にかかられる前、その衣は剥ぎ取られたとあります。それは私たち一人一人が、その義の衣をいただくためだったことを象徴しています。私たちはイエス様の捧げてくださった犠牲により義とされています。それこそが私たちが誇るべき永遠の希望の土台です。