2022年11月20日「天の窓は開いている」今村まさゑ協力牧師

マラキ書3章8節〜10節

 来週11月27日からの待降節・アドベントを前に、旧約聖書の最後のマラキ書を学びたいと思います。新約聖書のマタイによる福音書までの約400年の沈黙を前に、マラキ書は何を語っているのでしようでしょうか。

 マラキ(神の使者の意)(前450年頃)は、バビロン捕囚から帰ったユダヤの人々は、喜びの内に神殿を再建し暫くはよかったものの、いつしか形だけの礼拝へと堕落した状況の時に遣わされた預言者でした。十一献金はおろか、レビ人が神殿の仕事を軽んじて居たり、安息日に商売をしている人がいたり、異邦人女性を妻にしている者も増えたり、心が神から遠く離れていることに、気付いていない状況でした。マラキの諭す問題に、人々は「どのようにして神を、さげすみましたか。」と言う始末です。今朝の3章8~9節で、マラキは「神のものを盗んでいる。」しかも、「民全体で神を偽っている」と言うのです。新共同訳では、「偽っている」と訳されていますが、新改訳や口語訳他では「盗んでいる。」ヘブライ語訳では「強奪、略奪」という厳しい言葉が使われています。

「あなたがたは、はなはだしく、呪われている。」あなたはこの言葉をどう聞きますか。十一献金の規定(申命記14:22~)は新約では該当しない。すでに主イエスの十字架と復活に於いて贖われている今、規定としての献金ではなく、感謝の献金として喜びをもって献げたいと願っています。

 神を敬い、神を第一として生きるために、キリスト者は収入の初めにまず聖別して備える。残り物ではなく初穂を献げる時、祝福は限りなく豊かなものであります。「神はキリストに於いて、天のあらゆる霊的な祝福で満たしてくださいました}(エペ)

 「まことに天と地にあるすべてのものは、あなたのもの。・・このような寄進ができるとしても、・・すべてはあなたから頂いたもの、あなたの御手から受け取って、差し出したにすぎません。」とダビデは祈っています。(上歴代誌29:11~14)

10節には「十分の一の献げものをすべて倉に運び、わたしの家に食物があるよ うにせよ。これによって、わたしを試してみよと万軍の主は言われる。必ず、わたしはあなたたちのために 天の窓を開き 祝福を限りなく注ぐであろう。」と。

「わたしを試してみよ。」はこの箇所のみである。献げる生き方は、キリスト者の姿勢であり、祝福の基いであります。