受難節、第一主日です。ロシアによるウクライナ侵略戦争が始まって1年が経ちました。広大な土地を持ちながら尚、隣国の多くの人々の生命と平和を冒してまで土地を奪うという欲望、人間の貪欲の罪深さを思わずにはおれません。
本日は、それでもこの度し難い罪人の人間を愛し続けて、救いの御手を差し出しておられる神の御心を知って頂きたいのです。私たちは認めようと認めないに関わらず、神によって命を頂いて生かされているということです。創り主は一人一人に目的をもって造られたのに、私たちはその存在も目的も無視し、自分勝手に己を主とし欲望の赴くままに、自分の生活さえ潤えばそれでいい、せいぜい自分の家族さえよければそれでいい。命を与え生かすために人が生きるに必要な、水も太陽も空気も食べ物もすべて与えておられる神を遠くに追いやり、神を神としない人間の行為を、聖書は罪(ハマルテイヤ=的はずれ)と言うのです。
「罪が支払う報酬は死です。」(ローマ6:23a)更に(ヘブル9:27)には「人間にはただ一度死ぬことと、その後に裁きを受けることが定まっている」のです。先日、突然テレビから「無限地獄に落ちろ!」と叫ぶ声を聞き驚きました。何としても、罪を赦していただいて永遠の天国へお願いしますと祈った事でした。
19節に「神は・・人々の罪の責任を問うことなく、キリストによって人々を神と和解させようとされた」というのです。和解とは断絶状態の罪人同士が互いに歩み寄ることですが、何の罪のない神みずからがへりくだって、私たち罪人の身代わりとなって十字架にかかって死なれ、三日目に甦られたのです。
20節の「私たちはキリストの使者・・」これは、神より託された全権大使という意味です。「キリストに代わってお願いします。神と和解させて頂きなさい。」20節「罪と何のかかわりもないキリストを、神はわたしたちのために罪となさいました。わたしたちはキリストによって神の義を得ることができたのです。」
この神の愛、キリストの贖いを信じる限りにおいて、わたしたちはもはや罪人ではなく、神から義(罪赦されし者)と認めて頂けるというのです。最後に義という字ですが、王の上にソのような点々は茨を表し、それは十字架のイエスさまで、その足元にぬかずくわれ、そのとき、義とされる。と語った牧師がおられました。王なる神のみ前に跪いて生きさせて頂きましょう。