「牛を焼き尽くす献げ物とする場合には、無傷の雄をささげる。」(レビ記1章3節)
出エジプト記は、モーセとイスラエルの民がエジプトから脱出していく過程を描いています。彼らは道中、シナイ山にて十戒にはじまる律法を授かり、そして神様を礼拝するための「モーセの幕屋」と呼ばれるテントを建てます。この幕屋が完成したのは、イスラエルの民がエジプトを出てから、ちょうど一年たった頃でした。
この幕屋での働きを任されたのがレビ族でした。彼らはイスラエル12部族の中で特別に礼拝の働きのために選ばれた部族だったのです。レビ記は、この幕屋で働くレビ人のための業務マニュアルだったと言われています。
この当時のモーセの幕屋での礼拝の特徴は、それが「ささげる礼拝」であったということです。動物の犠牲を神様にささげるということは、もともと遊牧民族だったイスラエルの人々の最古の礼拝形式でした。動物の犠牲をささげる際に祈りも一緒に捧げられるようになり、ダビデ王の時代にはそれに賛美の音楽が加わりました。ヨシヤ王の時代には聖書の言葉の朗読が加わり、イエスさまの時代には聖書の言葉の解き明かしが加わっていました。時代が進むにつれて、今のキリスト教会の礼拝の要素にどんどん近づいていったのです。
しかしながら、聖書に記されている最古の礼拝についての記述に注目すると、その礼拝のエッセンスはなんと”ささげる”ということだったのです。これが私たちの礼拝のルーツであり、教会の礼拝の最も根源的な要素のひとつです。
レビ記1章の3節と10節には「無傷の・・・」という言葉があります。口語訳では「全きもの」という訳になっています。“完全なもの”という意味です。イスラエルの民は大切に育てた家畜の群れの中から、一番できの良いもの、しみも傷もないもの、その人にとって一番価値あるものを選び、神さまにおささげしたのです。
ちなみに、イスラエルの神は生贄そのものが焼かれるのを見て、満足されたのではありません。ささげる人の心をご覧になり喜ばれたのです。そのことは旧約聖書の後半部分でさらに明らかにされていきます。
私たちもこの教会の礼拝の中で、神様に祈りをささげ、賛美をささげ、時間をささげ、献金をささげ、さまざまな奉仕を通して賜物をささげています。わたしたちもこの礼拝を通して最善のものを神さまにおささげしていきたいと願います。