「人の子も、仕えられるためではなく仕えるために、また多くの人のための贖いの代価として、自分のいのちを与えるために来たのです。」(マルコ10:45 新改訳)
これは、イエス・キリストが弟子たちに語った言葉です。イスラエルの人々にとって“贖い(あがない)”とは、とても身近な、分かりやすい言葉でした。彼らが幼い頃から親しんでいる聖書に記されている言葉です。その概念は『身代わりの犠牲によって負債を支払うこと』です。
イスラエルの人々は罪を犯してしまって解決を求める時、犠牲の動物を携えてコミュニティの調整役のところに来ました。そして、本来は罪と一体化しているその人自身が命をもって支払い消されなければならないのですが、身代わりの犠牲の動物をささげることによって負債が支払われるという儀式があったのです。そのようにしてイスラエルの人々のコミュニティの精神的な平和と秩序が保たれていました。
イエス・キリストはこの身代わりの犠牲の動物に自分をなぞらえて、多くの人の贖いの代価、つまり、ご自分のいのちを身代わりの犠牲として負債を支払うために来たと語られたのです。
キリストの十字架の死は私たちの罪の身代わりの犠牲でした。あなたの罪もイエス・キリストの身代わりの犠牲によって解決がもたらされます。イスラエル人が動物に手を置いて『自分の身代わりです』ということを告白したように、「イエス・キリストが私の身代わりに死んでくださって感謝します」と言って神に感謝を捧げるのです。これが、神によって用意された救いを受け取るということです。罪の解決、それが“贖い(あがない)”です。