『すべてのことに赦しが与えられる』 加山献牧師
レビ記5章20節~26節、第一ヨハネの手紙4章10節~12節
【償うことのできる罪がある】
「すなわちこのような罪を犯すならば、彼はその責めを負い、その盗品、横領品、共同出資品、紛失物、 あるいは、その他彼が偽り誓ったものが何であれ、すべて返さねばならない。彼はそれを完全に賠償し、おのおのの場合につき五分の一を追加する。責めを負うときは、一日も早く所有者に支払わねばならない。」 (レビ記5章23節~24節)
私たちは誰も罪から自由ではありません。“罪とは社会のどの場面でも作動する巨大なシステムのようなものだ“と言った人もいます。人間は誰も罪の力から逃れることはできないのです。
けれども、私たちには償うことのできる罪があります。一度でも失敗したとしたら、もう人生はお終いでしょうか。そうではありません。わたしたちは隣人に対して償うことができます。どんな人でもやりなおすことができます。レビ記に記されている償いのささげものについての記事にはそのようなメッセージが込められています。
【しかし、償うことのできない罪がある】
「それから彼は償いとして、相当額の無傷の雄羊を群れから取って、主にささげ賠償の献げ物とする。 祭司が彼のために主の御前で罪を贖う儀式を行うと、責めを負ったすべてのことに赦しが与えられる。」 (レビ記5章25節~26節)
けれども、どうしても自分の力では償いきることができない罪があります。背負っても背負いきれないような罪がわたしたちにはあるのです。聖書の中では、人間の神様に対する罪こそが“償いきれない罪”として描かれています。
そこで登場するのが25節の「無傷の雄羊」です。この動物の犠牲が、人間の償いきれない神様に対する罪を、その命をもって、その血潮をもって、償ってくださるキリストを指し示していました。ここに赦しの希望があります。