イザヤ書64章7節
「しかし、主よ、あなたは我らの父。わたしたちは粘土、あなたは陶工。わたしたちは皆、あなたの御手の業。」
イザヤがこの預言を語った背景にはバビロン捕囚があります。ユダ王国の人々は神様から離れ、悪を重ねたことによって、故郷を追われ、バビロンに捕囚となっていたのです。64章は全体として神さまに対して自らの罪を告白している言葉が続いています。
1)しかし、神さまは父であられる
ところが突如として、それでも神は私たちの父であられる、とイザヤは宣言します。人々が神様からどれほど離れても、神さまを無視して、悪の限りを尽くしたとしても、それでも主なる神は私たちの父であることをおやめにならないのです。
新約聖書の中で主イエスが語られた放蕩息子のたとえ話のように、いつでも、いつまでも息子の帰りを待っている父なる神さまがおられます。
2)神さまは陶器師である
第二に神様は陶工であり、私たちはその手の中の粘土なのだ、とイザヤは宣言します。すべての人間は、神さまの御手の中で心を込めて大切に造られた存在であることが語られています。
使徒パウロはエフェソの教会に宛てて次のように書き送りました。「わたしたちは神に造られたものであり、しかも、神が前もって準備してくださった善い業のために、キリスト・イエスにおいて造られたからです。わたしたちは、その善い業を行って歩むのです。」(エフェソの信徒への手紙2章10節)
人は“神が前もって準備してくださった善い業”のために造られました。故に私たちの人生には使命があります。おのおの、その良い業を求めていく者でありましょう。