「アロンの子のナダブとアビフはそれぞれ香炉を取って炭火を入れ、その上に香をたいて主の御前にささげたが、それは、主の命じられたものではない、規定に反した炭火であった。すると、主の御前から火が出て二人を焼き、彼らは主の御前で死んだ。」(レビ記10章1節~2節)
この聖書箇所は非常に大きな問題を抱えています。それは“聖書の神は愛の神ではなかったのか?”という問いです。憐れみ深い神様、私たちの罪を赦してくれる神様はいったいどこにいったのでしょうか。
そこで私たちは、なにが旧約と新約を分けるのか、という聖書の基本に立ち返りたいと思います。旧約と新約を分けるもの、それはイエス・キリストです。
キリストが人となってこの地に来られてから、旧約が終わり、新約の時代が始まりました。古い契約が終わり、新しい契約が開始されたのです。キリストの誕生(受肉)が歴史を紀元前と紀元後に分けました。まさしく人類の歴史を二分したのです。
キリストが来られたことにより、神と人との関係は一変しました。罪人は神の子となることができるようになりました。信じる者すべてが、闇から光へ、死から命へ、絶望から希望へ、悲しみから喜びへ、移されるのです。
主イエスの教えは革命的な教えでした。なかでも一番、革新に満ちた教えが祈りについての教えだったと言われています。主は言われました。
「このように祈りなさい。天におられる、私たちの父よ。」(マタイ福音書6:9)
神様に対して、“わたしのお父さん”と呼びかけなさい、と教えられたのです。主イエスご自身はアラム語でアッバ父よ、と祈られたようです。小さな子どもが「パパ」と呼びかけるような時にも使われる言葉です。当時の宗教指導者の人々が最も受け入れられなかったのが、この教えだったと言われています。
圧倒的に清い神様、人間にとっては近寄りがたい神様、全ての汚れを焼き尽くす炎としてご自身を示される神様に対して、どうして汚れた人間が「わたしのお父さん」と親しく呼びかけることができるのでしょうか。使徒ヨハネは次のように言います。
「言(=キリスト)は、自分の民のところへ来たが、民は受け入れなかった。 しかし、言は、自分を受け入れた人、その名を信じる人々には神の子となる資格を与えた。」(ヨハネ福音書1:11~12)
ある意味において、ナダブとアビフは私達人間の本当の姿を鏡のように映し出しているように思います。神を尊ばず、自分勝手で、赦されるべき存在ではなかったのです。しかし、本来であれば罪の故に死ぬべきだった私が、人の罪と神の怒りを一身に背負われたキリストのおかげで、赦されている者として、愛されている者として生きることができるようになったのです。