「はっきり言っておく。心を入れ替えて子供のようにならなければ、決して天の国に入ることはできない。自分を低くして、この子供のようになる人が、天の国でいちばん偉いのだ。わたしの名のためにこのような一人の子供を受け入れる者は、わたしを受け入れるのである。」 (マタイによる福音書18章3節~5節)
このイエス・キリストの教えはふたつのメッセージを含んでいます。“子どものようになること”と“ひとりの子どもを受け入れること”です。
(1) 子どものようになる
ところでパウロは第一コリント書の中で次のように言っています。「兄弟たち、考え方において子どもになってはいけません。悪事においては幼子でありなさい。けれども、考え方においては大人になりなさい。」(Ⅰコリント14章20節、新改訳)
私たちは互いに成熟していくことが求められています。品性と人格においてはひとりの成熟した大人でなくてならず、他の人に対しては、子どものようにふるまってはならないのです。
しかし、神さまに対してはひとりの小さなこどものようであってほしい、とイエスさまは言われます。わがままでも良いから、弱いままでも良いから、ひとりの小さなこどものように私を求めてほしい、神さまはそのように願っておられるのです。
(2) ひとりの子どもを受け入れる
イエスさまは「わたしの名のためにこのような一人の子供を受け入れる者は、わたしを受け入れるのである」と言われました。”ひとりの子ども”という表現は、”こどもたち”というカテゴライズされた集団が大切なのだ、というよりも、ひとりひとりの人格的存在が大切なのだ、ということを強調しています。ひとりひとりの子どもが神さまにとってかけがえのない大切な存在なのです。
新約聖書の時代、子どもたちは今よりも厳しい環境で生きていました。戦争や飢饉があれば真っ先に犠牲になり、顧みられることがないのは子どもたちでした。そのようなひとりひとりの子どもたちを大切にし、受け入れなさいとイエスさまは言われたのです。