2024年3月10日「季節は冬であった」加山献牧師

 「そのころ、エルサレムで神殿奉献記念祭が行われた。冬であった。・・・ユダヤ人たちは、イエスを石で打ち殺そうとして、また石を取り上げた。」(ヨハネによる福音書10章22節、31節)

主イエスは春の過越祭の時期に十字架にかかられました。ヨハネ福音書の10章には、そのおよそ3ヶ月前の神殿奉献記念祭の時の記録があります。

ヨハネは次のように記しました。「そのころ、エルサレムで神殿奉献記念祭が行われた。冬であった。

日本は比較的、春夏秋冬がはっきりしていて、季節が美しく移り変わっていきますが、中東パレスチナ地域の気候は雨季と乾季に別れています。中東の冬は空気が乾いた、肌寒い季節です。

ヨハネはさりげなく、この時の季節は「冬であった」と書き記しました。彼は意図的にこの言葉を使ったようです。実は“冬”と訳されているギリシア語の”ケイモーン”という言葉には嵐という意味もあります。冬の季節とは嵐の季節という意味にもとれるのです。

私たちもそれぞれの人生の中で冬のような季節を通ることがあります。闇が最も深まり、作物が育ちにくい、暖かい春と比べると、命があまり感じられない、そのような季節です。私たちの人生には光が必要であり、命を育むような暖かさ、温もりが必要です。しかし私たちの人生に冬が訪れる時、私たちはどのようにこれに向き合っていけば良いのでしょうか。

神は好き好んで私たちを苦しみに遭わせる方ではありません。しかし、時に神は私たちの人生に与えた大いなる目的のために、試練を用いられることがあります。順境の時には神にすがる必要を感じないけれど、人は往々にして、苦しみの中で神に出会うものです。私たちは寒い冬が好きではありません。暗闇も好きではありません。しかし私たちの人生の嵐に大きな目的があることを知るのであれば、試練についての考え方は大きく変わっていくことでしょう。

世の罪を取り除くために、すべてを捨てて天から来られたのに、人々に受け入れてもらえなかったということは、主イエスにとって大きな苦しみでした。しかし主イエスの御苦しみにも偉大な目的がありました。主はご自分の苦しみの中に秘められている人類の救いという目的を知り、ただひたむきに十字架の道を進んでいかれました。

人生において最も大切な学びは、私たちがどのように悩みの季節に向き合うか、ということです。そしてそのような季節の中に隠されている大切な宝を見出すことができれば、私たちの人生はさらに豊かなものへと変えられていきます。