さて、今朝の主人公である「ラザロ」(神が助けて下さるの意)でありますが、姉のマルタとマリア、弟ラザロ、この三人を主は愛され、エルサレムに来られる時には、常宿にされた程に恵まれた家庭であったようです。両親は亡くなり、頼りにしている弟が病弱だったのかもしれません。今日の出来事はイエスが行なわれた「しるし」の最後で最大の行為で、イエスさまが逮捕、死を招く直接の原因となりました。
宣教活動で多忙を極めておられたイエスのもとに、姉妹からラザロが重い病気なので急ぎ来ていただきたい旨の知らせが届きましたが、イエスは「この病気は死で終わるものではない。神の栄光のためである。」と、なお二日間、同じ所に滞在されました。
扨、イエスが行って御覧になるとラザロは墓に葬られていて、マルタは「主よ、もしここにいてくださいましたら、わたしの兄弟は死ななかったでしょう」と。イエスが、「あなたの兄弟は復活する」と言われるが、マルタは、「終わりの日の復活の時に復活することは存じております」と言った。(実は、知識の信仰ではいけないのです。)
イエスは言われた。「わたしは復活であり命である。わたしを信じる者は、死んでも生きる。生きていてわたしを信じる者はだれも、決して死ぬことはない。このことを信じるか。」十字架の死と戦い、勝利される主イエスを信じることが、「死んでも生きる」命なのです。「永遠の命に生きる」こと。「永遠の生命」とは「不死の生命ではない。」
マルタは言った。「はい、主よ、あなたが世に来られるはずの神の子、メシアであるとわたしは信じております。」 (参照 ヨハネ20章31節<本書の目的>)
彼女たちが泣き、一緒に来たユダヤ人たちも泣いているのを見て、人々を悲しみと絶望に落としいれる死の力(信仰をも無にしてしまうような)に対して憤られたのです。
人間にとって「最後の敵として、死が滅ぼされます。」(Ⅰコリ15:26)この御言葉を実現され、勝利されたのが主イエス・キリストの十字架と復活の出来事なのです。37節に、イエスは涙を流されたとあります。イエスは血と涙を持つ人として、涙されたのです。(ヘブ4:15、ローマ12:15)愛するラザロを死なしめた死、憤りの涙でした。
イエスが、「その石を取りのけなさい」と言われ、イエスは天を仰いで、「ラザロよ、出てきなさい」と大声で叫ばれた。すると、死んでいた人が、手と足を布で巻かれたまま出て来た。顔は覆いで包まれていた。イエスは人々に、「ほどいてやって、行かせなさい」と言われた。