そこで、ピラトはイエスを捕らえ、鞭で打たせた。 兵士たちは茨で冠を編んでイエスの頭に載せ、紫の服をまとわせ、そばにやって来ては、「ユダヤ人の王、万歳」と言って、平手で打った。
ピラトはまた出て来て、言った。「見よ、あの男をあなたたちのところへ引き出そう。そうすれば、わたしが彼に何の罪も見いだせないわけが分かるだろう。」
イエスは茨の冠をかぶり、紫の服を着けて出て来られた。ピラトは、「見よ、この男だ」と言った。祭司長たちや下役たちは、イエスを見ると、「十字架につけろ。十字架につけろ」と叫んだ。ピラトは言った。「あなたたちが引き取って、十字架につけるがよい。わたしはこの男に罪を見いだせない。」 (ヨハネによる福音書19章1節~6節)
「荊の冠を主にかぶせて」 (讃美歌21の304番)
荊の冠を主にかぶせて 「ユダヤ人の王」と主をあざける
彼らはその時、知らなかった その傷がわたしを癒すことを
紫の服を無理にはいで 笑いものにして主をあざける
彼らはその時、知らなかった 主がわたしの恥を覆うことを
葦の棒で強くたたき続け 死に追いやるまで主をあざける
彼らはその時、知らなかった 御国は永遠に続くことを
この讃美歌の中で繰り返し歌われる”彼ら”とは誰を指すのでしょうか?主イエスをあざけり、暴行を重ねたローマ兵たち。そのような行動を認めたローマ総督のピラト。また主イエスを引き立ててきた祭司長や律法学者たち。そして「イエスを十字架にかけろ」と叫び続けた民衆たちのことです。
しかし彼らは皆、その時、知らなかった、と歌われています。自分たちが傷つけ、あざけっているこの人が何者であるかを、当時の人々は知る由もなかったのです。
受難の聖書箇所で大切なことは、この聖書箇所を読む私たちが、イエスを取り巻く人々の中に自分自身の姿を見出すことができるかどうかということです。