「あなたの指をここに当てて、わたしの手を見なさい。また、あなたの手を伸ばし、わたしのわき腹に入れなさい。信じない者ではなく、信じる者になりなさい。」 (ヨハネによる福音書20章27節)
主イエスは復活した日の夕方、弟子たちに姿を現わしてくださいました。しかしその場面には、12弟子の一人のトマスの姿はありませんでした。なぜ彼は不在だったのでしょうか。ある人は、トマスはあまりにも失望していたので弟子の交わりから心が離れかかっていたのではないか、と推測しています。ここでトマスの経験について考えてみたいと思います。実は彼の経験したことは、すべての人が通る信仰のプロセスなのです。
① 福音(証)を聴いた
第一に、彼は信頼できる仲間たちからの証言を聞きました。パウロはローマ書の中で「信仰は聞くことから始まる」と語り、「聞いたことがない人がどうして信じることができるだろうか」とも問いかけました。主イエスもたびたび「聞く耳のあるものは聞きなさい」と前置きしてから大切なことを語られました。
私たちにとっては新約聖書そのものが目撃証言です。ナザレのイエスがどのような方なのか。イエスと出会った人々がどのように変えられていったのか。そのような証言を私たちは聖書を通して聞いています。2000年間のキリスト教の歴史も主イエスと出会った人々の証言に満ちています。この早良教会も、一人でも多くの人に福音を伝えよう、という志を持った人々によって始められました。誰もが人生のどこかの時点で、誰かから福音を聞いたからこそ信じることができたはずです。私たちの信仰は福音を(イエスに関する証言を)聞くことから始まるのです。
② 疑った
第二に、トマスは“疑い”というプロセスを経験しました。ここで強調したいことは、“疑い”とは信仰のプロセスのひとつである、ということです。実は主イエスが戒めたのは“疑いそのもの”ではなく、“不信仰”、信じないという決断に至ることでした。
信仰に至るまでには誰もが、ある程度、“疑い”というプロセスを通るものだと思います。福音の知らせを聞いて、「これは本当に信じるに値するものなのだろうか。私の人生を委ねてもよいものなのだろうか」と、聞いたことを吟味していく過程があるのです。それはとても健全なことであり。信仰に至るための大切なプロセスです。
③ 復活のキリストに出会った
第三に、トマスには復活の主イエスとの出会いがありました。8日の後、主イエスはトマスに現れてくださいました。そしてご自分の方から疑っているトマスに近寄り、信ずる者になるようにと熱心に声をかけられたのです。
復活のキリストは恐れの中にある弟子たちに、御傷を示してくださいました。それは弟子たちのために差し貫かれた傷跡でした。トマスは最後の晩餐の席で主が語られた言葉を思い出したことでしょう。「これはあなたがたのために裂かれる、私の体である。」