「イエスが町の門に近づかれると、ちょうど、ある母親の一人息子が死んで、棺が担ぎ出されるところだった。その母親はやもめであって、町の人が大勢そばに付き添っていた。主はこの母親を見て、憐れに思い、『もう泣かなくともよい』と言われた。」(ルカによる福音書7章12節~13節)
1)主イエスは共感してくださる
イエスさまと弟子たちは“ナイン”という町に訪れました。そこで、ある葬儀の列に遭遇しました。ひとりの女性が人生を連れ添ってきた夫に先立たれ、そして今度は彼女の唯一の生きる支えであっただろう、ひとり息子さえもなくしてしまったのです。
13節で、イエス様はこの母親をみて憐れに思ったとあります。この憐れに思ったというのはただかわいそうに思ったということとは違います。はらわたがちぎれそうになるほどの痛みを体に感じた、胸がはちきれそうな痛みを覚えたということです。イエスさまはこの女性の悲しむ姿に心を引き裂かれる想いだったのです。
2)主イエスは希望を与えてくださる
福音書の中には、数多くの奇跡が記録されていますが、その中で死人が生き返ったという奇跡は三回だけです。会堂長ヤイロの娘、ベタニア村のラザロ、そしてこの聖書箇所に登場するナインのやもめの息子です。
人は一度、死にます。聖書もそのことを強調します。しかし、その死の先に新しい始まりがあることを、新しい命があることを、イエスさまはこれらの奇跡を通して示されました。これらの奇跡は復活の命の象徴だったのです。
主イエスはこの母親に言われました。「もう泣かなくともよい」。なぜ主は「もう泣かなくともよい」と言うことができたのでしょうか。それはイエス様ご自身が、この悲しみに解決をもたらす方であったから。愛するものの死に直面するとき、わたしたちは悲しみます。そして、ある種の寂しさを抱えながら生きていかなければならないことも確かです。しかしそうでありながらも、私たちにはイエスが与えてくれた希望があるということを忘れずにいたいです。もう十分にその悲しみを悲しんだのならば、しっかりと涙を流したのならば、「もう泣かなくともよい」と語られる言葉に従い、涙を拭いて立ち上がることができるのです。