主に導かれた礼拝に於いて「異邦の女性の信仰を通して」心からの礼拝を神に捧げてまいりましょう。
さて、今朝の「カナンの女の信仰」は、どのような信仰でありますでしょうか。ご一緒に学んでいきたいと思います。
マルコ7章24節には「イエスはそこを立ち去って、ティルスの地方に行かれた。ある家に入り、だれにも知られたくないと思っておられたが、人々に気づかれてしまった。」とあります。イエスは地中海沿岸に位置するフエニキヤ地方のティルス(異邦の地)に身を隠すためにその地に向かわれました。主は、疲労困憊されておられました。その様子はマルコ3:7~に描かれています。
身を隠されたその場に「汚れた霊に取りつかれた幼い娘を持つ女が、すぐにイエスのことを聞きつけ、来てその足もとにひれ伏した。」とあります。マタイ福音書ではこの出来事についてその女性が「主よ、ダビデの子よ、わたしを憐れんでください。娘が悪霊にひどく苦しめられています。」と訴えていることを記しています。しかし、イエスは何もお答えになりませんでした。弟子たちも「この女を追い払って下さい。叫びながらついて来ますので。」と冷淡に対応しました。
しかし、なおも女は来て、イエスの前にひれ伏し、「主よ、どうか助けて下さい」と訴えました。イエスは「まず、子どもたちに十分食べさせなければならない。子どもたちのパンを取って、小犬にやってはいけない。」と答えられました。当時ユダヤ人は異邦人を犬と呼んでいました。ところがそのような状況においても、女は屈することなく答えて言っています。「主よ、しかし、食卓の下の小犬も、子どものパン屑はいただきます。」女はどこまでも謙虚に、どうしても助けが必要であることを願いました。
今朝のイエスさまの冷たいまでの拒絶はなぜだったのでしょうか。イエスは単に癒しの恵みを明らかされただけではなく、再三の拒絶にも関わらずイエスの癒しを信じ通した女の信仰を引き出して下さったことが明らかです。ただ病が癒されるだけではなく、魂が癒され、永遠の命に至る信仰にフォーカスが当てられている事が重要なのです。
「女よ、あなたの信仰は見上げたものだ。あなたの願い通りになるように。その時に、娘はいやされた。」(口語訳 マタイ15:28)と、記されています。
神は真実な方であると信じる者は、望みを失わないで神に祈り続けます。何と幸なことでしょう。
お互いに今週、カナンの女性の信仰に倣い、十字架とご復活の主に導かれ、それぞれの生活の場で、主を喜び、あかしのあゆみをしてまいりましょう。