マタイによる福音書18章21節~35節
「そこで、天の国は次のようにたとえられる。ある王が、家来たちに貸した金の決済をしようとした。決済し始めたところ、一万タラントン借金している家来が、王の前に連れて来られた。」(23節~24節)
「その家来の主君は憐れに思って、彼を赦し、その借金を帳消しにしてやった。」(27節)
一万タラントンは6000億円くらいです。これは、私たちの罪は自分の力では返済不能である、ということをあらわしています。ここで大切なことは、帳消しということがあるが、神さまは私たちの罪を大目に見て、なかったことにしてくれた、水に流してくれた、ということではなく、神さまは私たちの一番汚いところに手を伸ばし、すべてを引き受けてくださったということです。神さまが私たちの罪を引き受けてくださった時に、犠牲が伴い、痛みが伴いました。それがイエス・キリストの十字架です。
「ところが、この家来は外に出て、自分に百デナリオンの借金をしている仲間に出会うと、捕まえて首を絞め、『借金を返せ』と言った。」(28節)
100デナリオンというのは大体100万円くらいです。決して少ない金額ではありませんが、この人は途方もない額の負債を帳消しにしてもらったのに、自分に借りがある仲間を赦すことができなかったのです。
「『わたしがお前を憐れんでやったように、お前も自分の仲間を憐れんでやるべきではなかったか。』 ・・・あなたがたの一人一人が、心から兄弟を赦さないなら、わたしの天の父もあなたがたに同じようになさるであろう。」 (33節、35節)
これは神さまが私たちの罪の赦しを撤回される可能性がある、という意味ではありません。赦すことが救いの条件である、ということでもありません。私たちの罪の赦しはイエスさまの十字架と復活により完結しています。
しかしイエスさまは、私たちには人を赦す義務がある、ということを言っています。そして私が赦されたということと、私が他の人を赦すことはつながっている、ということをイエスさまはたびたび福音書の中で語られています。十字架による罪の赦しをいただき、信仰を持ったならば、それは私たちの”他の人を赦す”という生き方に現れてくる、ということです。