イザヤ書46章3節~4節
早良教会では、敬老礼拝を恵みの長寿を感謝して「恵寿礼拝」と称し、80歳以上の教会員、求道中の方、会員のご両親、ご親族の方々を対象にお祝いをしております。今年の対象教会員は、小野兄、高木兄、植田兄、中牟田姉、堀姉、今村、です。
ご入院中の方、自宅で闘病中の方、施設でお過ごしの姉妹方、元気で礼拝の恵みに与っている方、更に70代の10名を覚え、主の祝福をお祈りして頂きたいと思います。
さて、詩編90:3~を拝読します。「祈り。神の人モーセの詩」とあります。
モーセは3000年以上も前に波乱万丈な人生を、120歳まで生きぬいた民の指導者でした。このところから、2つの事を学びたいと思います。
1,私たちは死ぬ者であること。老いも若きも「人の子よ、帰れ」と仰せの時が来る。
2, 生涯の日を正しく数え、知恵ある心を得ること。御子の贖いの業を信じて義とされる救いの道があることを受けとめ、天の故郷への確信をいただいておきましょう。
さて、今朝の聖句、イザヤ書46章に注目しましょう。
3節に「わたしに聞け、ヤコブの家よ、イスラエルの家の残りの者よ、共に。」これは、バビロンとの戦いに敗れた生き残りの者だけでなく、イスラエル以外の国々から逃れてきた者たちもすべて、胎を出た時から担われてきた。
4節、「同じように、あなたたちの老いる日まで、白髪になるまで、背負って行こう。」(口語訳では)「わたしは造ったゆえ、必ず、負い、持ち運び、かつ救う」です。何という恵みに満ちた有り難いお言葉でしょう。
更に、イザヤ53章には「苦難の僕・イエス・キリストの姿」が描かれています。4節、彼(キリスト)が担ったのはわたしたちの病、彼が負ったのはわたしたちの痛みであったのに、わたしたちは思っていた。
6節、「わたしたちは羊の群れ、道を誤り、それぞれの方角に向かって行った。そのわたしたちの罪をすべて、主(神)は彼(キリスト)に負わせられた。」
12節、「彼が自らをなげうち、罪人のひとりに数えられたからだ。多くの人の過ちを担い、そむいた者のために執り成したのは、この人(キリスト)であった。」
このイエス・キリストこそが全人類の救い主であります。十字架と復活の御業が私のためであったと信じる時、神はみ国に迎え入れて下さるのです。年老いるまでではなく、死のかなた天の御国まで持ち運んでくださるのです。(参照ローマ3:23~25)